読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

立て直せ、人生。

人生行き当たりばったりなアラサーが、無事にアラフィフになれるように頑張らないブログ

オタクの気持ち悪さに関する一考察

じぶんのこと

スポンサーリンク

時折、オタクと一般人の差分について考えることがある。
たとえば、飲み会の席などで話していて「君オタクっぽいよね」と言われたときなどだ。

オタクっぽさ、とは曖昧な概念であるけれど、けっこうな頻度で出会うことになる。果たして、この概念についてどの程度議論されたのだろうか。
たぶん、大いにされている。このエントリは、その議論の中に勝手に飛び込んでいくものである。

ぼくが思うに、オタクらしさ(オタクの気持ち悪さ)とは「それが可能である状態に身を置くことへの執着心」と、「物事の背景のコンテキストへの執着心」との二つではないだろうか。

以下の記事では、上記2つの観点から、オタクらしさということについて簡単に自分の考えを表明したいと思う。

「xxすることができる」というスペックへのこだわり。「「それが可能である状態に身を置くこと」への執着心」

例えば車を買うときに「かっこいい」「燃費がいい」という、合理的な理由で車を買うのが一般人だとする。他方、オタクは「この車はxxx馬力で、WRCにも優勝し、車体剛性を高めた……」などと言い出す。 実際に、その性能を使い切ることがなかったとしても、だ。

「それが可能である状態に身を置くこと」への執着心。僕はこう呼びたい。

たとえそれを実現するのが、経済的に非合理的だったとしても、だ。

例えば、高性能なカメラを買ったとき。「センササイズがこんなにも大きくて夜景に強いんだ(撮らないけど)」。例えば、ステレオを買ったとき。「劇場と同等のスペックの音響設備(出す機会はないけど)」。

「やるかやらないか」、というものではなく、「やることができるか状態かどうか」という点を、相当に重視している。だから、本を積むだけ積んで読まない人は「読むことができる状態に自分に置いた」オタク気質の人だし、走り屋もある種スペック厨で「xxxができる状態になるパーツ」を買うような人種だから、オタク気質だと考える。
実際、車好きの走り屋と、オタク趣味は親和性が高いようにみえる。

物事の背景のコンテキストへの関心

一般人の会話の一つとして、あるアニメを観たときに「面白かったよね〜」という会話をして、どのシーンがワクワクしたか、などという話で終わるのが多いように思う。

一方で、オタクっぽい会話の一つとしてはこうだ。

「あのシーンよかったよな」
「あれは、どう見てもSFのxxの作品のオマージュだよな」
「用いられるシーンの文脈がまるで逆だけれども、それは意図的だと思う」

大変キモいのであるが、そのキモさが「遠い物事の話と、手前の物事をくっつけるその屁理屈感」であったり、「それを相手が知ってて当たり前という雰囲気」、そして「直接は読み出せない背景への執着」 である。

人によっては、掘り下げ、と言うかもしれないけれど、ここでは「執着」という言葉を使うこととする。
オタクは、自分の感じた「良さ」だとか「好き」を、無駄に理屈づけて言語化することにより、相手とその気持ちを強引に共有しようとする。
こち亀の「いいよね」「いい……」という阿吽の呼吸は、よっぽど年季の入ったオタクでもそうはいない。あるとしても、そういう趣向の人間のあつまりではないだろうか。

背景を読み出せる能力に長けるとどうなるか。一つの作品から、無限の解釈がうまれる。だから、入力が1つの作品から、様々な二次創作が生まれ落ちたりするのではないか。

この話をすると、ボルヘスのある作品*1を思い出さずにはいられない。
この物語では、一字一句同じ物語を創出したとして、その書き手や書かれた時代背景によってその作品の解釈は全く変わってしまう、という物語だ。
オタクは、この背景の有無による物語の変質を無意識的に知っていて、その背景含めた作品の受け取り方を考え共有しようとしているのではないだろうか*2

*1:「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」

*2:無論、この項目そのものが、オタクっぽさを例示するための自己言及的なものになっている