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立て直せ、人生。

人生行き当たりばったりなアラサーが、無事にアラフィフになれるように頑張らないブログ

アニメ作品に対する感動のすり減りについて

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ぼくはオタクだ。高校時代に深夜アニメという存在を知り、毎夜親の目を盗んではアニメをみた。ハチミツとクローバー、プラネテス、十二国記。ゴールデンタイムのアニメしか知らなかったぼくには、深夜にアニメがやっているその事実が刺激的で、かつその内容の骨太さに魅了された。

そして萌えアニメを知ることになる。月詠やゼロの使い魔の衝撃は今でも覚えている。ぼくはそのとき葉月に恋をしていたし、ルイズに罵られたかった。ゼロの使い魔は、一話を見終えた翌日に、自転車にまたがって本屋に行き、既刊をすべて買い揃えた。

そんな懐かしの萌えアニメを観返す機会があった。そして、気づいた。かつて、寝る間を惜しんで見ていたアニメたちだというのに、驚くほど楽しめないのだ。

僕はその事実に呆然とした。なぜか。そのときの僕は、あの頃の作品に触れれば、いつだって僕もあの頃に戻れるって信じていたからだ。例えば、学生時代に仲の良かった友人どもと出会って数分もすれば、あの頃と変わらぬようなやりとりができるように。作品というものは変わらずそこに在り続ける。だからこそ悲しさもあるけれど、いつだってあの頃と同じ姿で僕を出迎えてくれるのだ。それはきっと、優しいタイムマシン。

でも、ぼくは変わってしまっていた。ぼくは、タイムマシンに乗り込めなくなっていた。

かつて、僕は好きな映画や音楽ほど繰り返して観るのを避けた。それは、感動のすり減りを防ぐためだ。何度も何度も触れるうちに、飽きてしまうことを恐れたのだ。初めて触れたときの衝撃や感動を、時間をあけたのちに味わいたかったのだ。でも、それは間違いだったのだ。現に、内容を思い出せなかったくらい久々に触れる作品だというのに、楽しめなくなっていた。

しかし、そんな一方で、初めて触れたときよりも印象的になった作品もあった。たとえば、学びストレート。夢ってなんだろうという問いかけ、大人と子供との対比。あの頃よりも老けてしまったぼくの心に、ぐっさりと刺さった。他には、クレヨンしんちゃんのオトナ帝国やヘンダーランドの大冒険*1。しんのすけよりも、とーちゃんに感情移入している自分を見つけた。そして僕は当たり前の事実に気づく。アニメだって、触れるべきタイミングというものがあるのだということに。

アニメ好きで本狂いの友人は言った。
「ライトノベルだってなんだって、同じジャンルに居ると新鮮さがなくなって、かつてみたいに純粋に楽しめなくなる。だから、一つのジャンルに固執せず、色々なものにチャレンジした方が面白い」
そのとき、友人はちらりとSFが詰め込まれた本棚に目をやり、苦笑した。

だからもし、自分が楽しめなくなったら、僕は「そのジャンルが衰退した」「駄目になった」のだと言わず、卒業の時期が来たのかも知れないと考えようと思う。自分に楽しめるものは、その時々によって移り変わる。一つのものに固執して、機会を逃し続けるのは、勿体ない。それまで、居心地がよかった場所に別れを告げるのは心苦しいけれど、今生の別れなどではない。作品はそこに在り続けるし、また自分がそれを求めるときに戻ってくればよいだけの話だ。

ところで、学生時代に読んでいた作品に「なれるSE!」という本がある。この本は、システムエンジニアの仕事を描いた作品だ。信じられないくらい酷い状況で、信じられないくらい可愛い子と、信じられないくらいの機転で乗り越えて行く。どれもこれもフィクションだ、と思っていたけれど、SEになった今では、どうしても触れることができない。これもいつか、触れられるようになる日が来ると良いと思う。

*1:アニメスタイルオールナイトというマニアックなアニメ専門上映会で、なんとフィルム上映されることがある