喪はれる執着心とぼくのiPhone
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iPhoneの画面を割った。買い換えて2ヶ月経った頃だ。ぼくはiPhoneを拾い上げ、砕けた画面からこぼれるガラス片を払いのけた。悲しみよりも、交換が面倒だな、という気持ちが先に立った。iPhoneというものについて、全く執着心が無くなってしまっていることに気づいた。
かつてぼくは、携帯に強い興味を抱いていた。新しい端末が出れば、友人と共に電気屋へ出かけ、生物室から拝借したルーペを用いて、使用されている液晶のメーカーを調べた。音楽機能の仕様を調べ、ウォークマン代わりにしたり、暇つぶしのアニメを入れたりしていた。
どの端末も個性的で、誰もが自分の携帯に愛着を持って使っていた。安くはない買い物だったから、検討して比較して、悩み抜いて買ったこだわりの一台だった。しかし、そんな携帯電話もつまらないものとなってゆく。共通プラットフォームの導入で、どの端末も画一的で、没個性的になってしまったのだ*1。
そんななか、2009年にiPhoneが出たときは、心が躍った。美麗なOS XのUIを受け継ぎ、フォントレンダラも美しく、所有欲も満たされた。アプリケーションで機能拡張は無限大。夢の端末そのものだった。ぼくはすぐさまに乗り換えた。当時のiPhone 3GSは音楽を聴きながらツイッターをするだけで音飛びをするような貧弱なスペックで、事実上やれることも限られていた。けれど、皆工夫を凝らして遊んでいた。それがまた、楽しかった。
そんなiPhoneだったけれど、代を重ねるにつれ、徐々に愛着が薄れていった。皆が同じものばかり持っているから、だろうか。それもある。けれど、それだけでは説明できないほどの勢いで、「ぼくのiPhone」という想いが薄れていた。
交換してもらったiPhoneをバックアップから設定を流し込んでいると、それを見ていた友人が、ぼそりつぶやいた。
「不気味だよな。USBケーブル繋いでしばらくすれば、壊したアイツのような顔して動き始める。見た目だけじゃなくて、中身もまんま同じ」
ぼくは、その言葉にハッとさせられた。世の中に溢れるスマートフォンは、ソフトウェアにおいてのみ個が定められる。ハードウェアはただの入れ物で、新しいものには互換性を持つ。古いものから新しいものへと乗り換える儀式は、ケーブルを繋ぐだけだ。しばらく待てば、見た目だけが少し変わったアイツと出会うこととなる。
社会はソフトウェア化がすすみ、計算機*2そのものすら仮想化(ソフトウェア化)が進んでいる。物理的な「サーバー」の存在は、消え失せつつある。暴力的とまで感じる効率化は、きっとやがて人そのものにまで届くのだろう。ぼくたちは確実にSFの世界を生きている。
モノそのものへ想いを抱くことが、時代遅れなのだろう。けれどぼくは、自分の使うモノは、相棒と考えている。「ぼくが一番、君をうまく使えるんだ」。そんなアムロイズム溢れるぼくにとって、今の世の中はとても便利な一方、少し寂しく感じる。