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立て直せ、人生。

人生行き当たりばったりなアラサーが、無事にアラフィフになれるように頑張らないブログ

交通事故に遭った人を助けるのは、そんなにおかしいことなのだろうか?

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数年前、まだぼくが学生だった頃、地元を運転していた時の話だ。当時は非力で旧式の軽自動車に乗っていて、坂の多い実家の近くでは運転に苦労させられたことを覚えている。

ぱしゅんぱしゅんと、前オーナーの改造によってエンジンは勇ましく鳴くのだけれど、低速ではちっとも走らない。四苦八苦して車を転がしていると、渋滞につかまった。しかも坂。マニュアル非力な車には、地獄でしかない。

しかし、その渋滞はいつもと少し趣が違った。普段なら混まないところで、ホームセンターの駐車場の出入り口付近。信号もないところだ。不審に思っていると、少しずつ動く車の果てに、砕けたプラスチックと倒れた原付、ハザードを炊いたコンパクトカーが停まっていた。救急車も警察も来ておらず、バイクの人はピクピクと動くのみ。通行人が目を丸くして見つめているだけで、誰も駆け寄ろうとはしていない。事故相手のコンパクトカーの運転手は車の中。

周りの車たちは、その事故現場を避けるように、そろそろとすり抜けてどこかへ行く。警察はすぐ近くのはずだのに、サイレンも聞こえない。事故は起きたばかりで、誰もなにも連絡をしていないのだ。

ぼくはギアをニュートラルから一速に入れ、ハザードを炊きながら空き地に車を突っ込んだ。そして、倒れた人に駆け寄った。数刻遅れて、サングラスのオールバックのお兄さんが立ち現れた。空き地には、黒塗りでスモークの貼られたいかにもな車が止まっていた。そしてコンパクトカーから降りてくるおばさん。なにしていたのか、と問うと、警察に電話していたのだとの答え。少し離れたところから、サイレンが聞こえた。

意識はあったが声が出ない。頭を打っているようだった。動かしてはいけないが、このまだと轢かれてしまう。ぼくとグラサン兄さんが交通整理を始めた。そして、しばらくして警官がやってきたが、その段になって人だかりができた。若い警官は、2人がかりでコンパクトカーのおばさんを事情聴取をしている。倒れた原付の人には、はじめに一言二言声を掛けたのち、そのまま放置だ。すると、先ほどまでは近寄ろうともしなかった人たちが集まってくる。そして大丈夫?と声をかけつつ助け起こそうとする。

「起こすな!頭を打っているかもしれないんだぞ!」

離れたところで交通整理をしていたぼくは、声を荒げて制止した。助け起こそうとした人から、非難めいた目線を向けられる。警官が一人小走りで倒れた男に駆け寄り、人々を制す。 そして数分後、やっと救急車が到着し、ぼくは安堵する。救急車が走り去り、警官と二言三言話していると、いつの間にかグラサン兄さんは車とともに消えていた。 後日、知り合いおばさんに話すと「きみは正義のヒーローだからねぇ」「昔から変わってて、普通じゃないから」といってケラケラ笑った。ぼくは、不愉快な気持ちでおばさんを見た。

この出来事は、数年経った今でもぼくの心に引っかかり続けている。 事故をして倒れている人を見て見ぬ振りするのが普通なのだろうか?助けるくらいで、ヒーローと揶揄されるようなことなのだろうか?「ヤ」のつく職業の人たちの義理と任侠と対照的な、善良な市民の様子——

先日、会社帰りに電車待ちをしていると、目の前のスーツを着た初老の男性が突如倒れた。ぼくは面食らって少しの間立ちつくして、我に返り声をかけた。ひどく痙攣はしていたけれど、意識はあった。駅員を探そうと駆け出そうとすると、ぴちっとスーツを着込んだおじ様が「もう駅員呼んだから、大丈夫だよ」とぼくと倒れ込んだ男性に声をかけた。すぐさま、駅員が駆けつけてきて、おじさんは立ち去った。

すばやい対応をしたあのおじ様は、かっこよく、確かにヒーローのように見えた。ぼくは思う、ヒーローはどこにだっているのだ。誰だってヒーローを裡に持っているのだ。もしかしたら普段はサングラスをかけて黒塗りの車に乗っているのかもしれないし、スーツを着込んで部下に指示を飛ばしているのかもしれない。 状況に直面したとき、ぼくたちの中のヒーローが目を覚まし、立ち現れるのだ。

いつでもどんなときでも、慌てずに自分のなかのヒーローを呼び覚ませることができる。そんな人間になれるといい、そんな風に思う。