立て直せ、人生。

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腕時計をはめなくなってから10年が経った

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を読んで。

ぼくと時計

2006年、ぼくが田舎から東京をスイングバイして関東の田舎の大学に行くことになったとき、母はぼくに時計を渡して「元気でね」と言った。そのとき、母に贈られた腕時計を盗まれてから、ぼくは腕時計をしなくなった。

子供の頃から、ぼくはメカというものが好きだった。ポータブルMDプレイヤーは普及し始めの頃、1998年に4万くらいしたものを「その年に欲しいもの一つ」として買った。一点豪華主義的な感覚であったが、未だカセットウォークマン派が多いなか、MDウォークマンで流行の先端をひた走った。

そんなぼくであるので、腕時計というものにも興味を持つのは当然早く、小学一年生のころにカシオの時計を欲しがった。 テロリストも使う質実剣豪なそれは、カシオのF91Wという。

「もっといいのを買いなさい」

ぼくの時計は当時流行したGショックのゴテゴテした時計になり、誕生日プレゼントとして贈られて「安いので良いのに」と憤ったことは記憶に残っている。けれど、その腕時計は水に濡れても壊れず、転んでぶつけても壊れず、頼り甲斐のある相棒として愛着がわき、ベルトを2度ほど交換して4年ほど使った。

電波時計とぼく

小学生も高学年になったころ、乱暴に扱ったGショックはボロボロで、買い換える必要に迫られた。そしてぼくは知る、電波腕時計という存在を。 置き時計や掛け時計には普及し始めた電波時計だったが、腕時計にはまだめずらしかった。日本中どこにいたって寸分違わぬ時刻を伝える腕時計。そんな可能性に胸ときめかせ、ぼくはその腕時計を買った。

その翌日から、ぼくはその腕時計をはめて生活した。学校では時計が禁止だったから、家に帰るなり腕時計をはめてみたり、カバンの中に入れておいて、学校が終わるなりはめてみたりした。電波の受信部がせり出していて、見た目は少々不細工ではあったが、それでもぼくはその時計を気に入り、高校に入るまでの4年間、使い続けた。

そして、その時計が寿命を迎える頃、ぼくは高校生になり、バリエーションの増えたおしゃれなチタン製の腕時計に乗り換えた。母は言った。「大人になったら良い腕時計を買いなさい、一生ものだから」と。そのとき、30年もののロレックスの腕時計を見せてくれたが、元気に動いている。

そして腕時計のない生活へ

そんなぼくは、大学に入って腕時計をはめるのをやめた。それは、入学祝いに母に贈られた腕時計を、不注意から半年で盗まれてしまったからだ。そんなに高価なものじゃないから、と母は慰めてくれたが、ぼくにとってそれは値段の問題ではなかった。人生の節目の思い出の品を、自分の不注意で失ってしまったその事実に、自分が許せなかったのだ。

腕時計のない利点

腕時計をはめなくなってからの違和感は、すぐに消えた。つい腕を見てしまう癖は1ヶ月もすればなくなり、携帯を確認すればよかった。そもそも情報系の大学であったから、右下に目をむければネットワークで同期された時刻が浮かんでいる。

腕時計をはめなくなって、都合の良いこともあった。ベルト部分がムレなくなったし、何よりキーボードを打つときにベルトがガチャガチャと当たることが無くなったからだ。そしてそれから今に至るまでのおおよそ10年、ぼくは就活時期を除いて時計をはめていない。

母に顔をあわせると、未だに面接とか婚活とか、そういった場所で使うための少し良い時計を買いなさいと諭される。ぼくが冗談でF91Wをはめて「日本が世界に誇る時計なんだ」とでも言おうものなら、ぷりぷりと怒る。

けれど、時計なんてそんなものに堕ちてしまったのだ。少なくとも、ぼくの中では。

ぼくの中での腕時計の価値

自分が好きで、興味のあるものであれば、無理をしてでも良いものを買うだろう。けれど、結局のところ、時計は「誰にどう見られるか」というためだけの存在となってしまった。それが、よく人と会う職種の人で、相手に与える印象を大切にする人であればまた別だろう。けれど、ぼくは平日社ビルに引きこもり、土日は映画館か居酒屋をめぐって、男友だちと遊び回っている。自分の中の興味が失せてしまった今、時計に固執する理由がないのだ。

価値観というのは移ろう。けれど、下の世代ほど人数が少ない今の社会では、古い価値観が亡霊のようにそこいらに佇んでいる。そんな亡霊たちに気を揉みすぎて消耗しないように……それは気をつけていきたい。