IT業界に入ってしまった
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「管理職としての意識を持たないと」
っていう言葉は、新卒入社二年目のぼくの中を何も残さずに通り抜けていった。 管理職、とはなんだろうか。給与明細にはそんな手当ついていないんだけど、と小さく呟いた。
気づいたら、IT業界にいた。SIerにはなりたくなかった。企業に開発したシステムを納め、人を送って保守運用 *1 をする会社は、人が仕事するような場所ではないんだと聞いた。 気づくと、SIerに発注する側で上流工程をいきなりやることになっていた。「どちらにしろ人が働く場所じゃないね」と誰かが囁いた。
「コードを書く、コードを書く、コードを書く。そして最後は畑を耕したんだ。」
大手SIerに就職して退職、その後地元に戻った友人の言葉だ。その日、地元の喫茶店で久しぶりに会った友人は、東京であった時より幾分か顔色が良く見えた。コーヒーカップを置く音が、やたら大きく響いて聞こえる。見上げると、シーリングライトが愉快そうにくるくると回っていた。
就職して感覚が麻痺してゆくことに、ぼくは恐れを抱く。
先日、ネット友達のIT業界のおっさんと話をした。
「僕、就職して20年くらい経つけど、新入社員の頃から客先にずっと出ずっぱりですわ」
自社より出向先に所属意識があり、社名も咄嗟に出向先の方が出るんだ、まぁ二次受け以降の会社よりは良いんだけれどさ、と苦笑する。
人月*2幾らのシステムで、ぼくらの社会は回ってる。ほんとかどうかは知らないけれど。ほんの数作業と検証に、一人月*3かかったと報告を受けた時、ぼくは「そのシステムの価値」だなんてのを考えるのを諦めた。たぶん、慣れた人が書いたら一週間(3〜5人日)くらいのコードだった。
「金を稼ぐコードが正義だよ」
それくらいしかぼくには分からない。でも、その稼ぎ方って、システムの運用元であればぶんぶんサービスを回して走らせて、売上を上げることだ。あるいは、出来の良い安定性のあるシステムを作って運用コストを下げる。
一方で、SIerは相手のニーズを満たしているかのように見せつつ、保守運用費要員で利益を稼げるようにしようとする。契約によるんだろうけど、そこには利害関係の不一致があるように感じられる。ペーペーのぼくにはその折り合いのつけかたってのがどのようなものか?はまだ理解できていない。
冒頭の言葉は、二年目の頃、差し迫った納期前、自分でコーディングしたことを知った上司に言われた言葉だ。簡単な運用内部ツールの実装をお願いしたら、一人月かかると言われ、そんなに待てないので自分で作ったら仕事の合間に一週間でできた。
無論、テストは雑だし仕様書も設計もザルだけど、運用ツールで使い捨てだから良いのだった。
上司には、「往々にしてそんなツールは使い続けられるんだから」「きみはそんな暇ないでしょ、管理業務溜まってるじゃん」と諭され、冒頭の言葉に至る。二年目の管理職。何かのドラマのタイトルのようだ。
それからまた二年、今四年目のぼく。好もうと好まないとに関わらず、メーラーとエクセルに夢中にならざるを得ないぼくは、「実質半分管理職なのかなぁ」とは思わないでもない。
それでも、商業環境レベルのコードをほとんど書いたことのないぼくが設計書とコードのレビューをしたり、なぜそのコードがまずいのか?プログラムの解説をしていたりするのは、大丈夫なもんなのだろうかなぁ?と不安にはなる。
IT業界は新しい業界で虚業だとはいうけれど、世界初の電子計算機であるENIACができて70年、UNIXが生まれて広く計算機が使われるようになってから50年近くが経っている。
システム開発のなかで言われる「常識」は、1970年代の論文が発端のものだって多いほどには歴史が古い。なのに、なぜ日本のなかでは未だに「あたらしい」扱いで、見積もりや品質管理、マネジメントの枯れ具合が、工業や建築から大きく遅れてしまっているんだろうか?
先日、情報処理系のシンポジウムにいってこの点が話題になった。最も心に残ったのは、「日本はパーツパーツの完成度が高いけれど、全体での完成度が低いのではないか。部分部分がダメでも、冗長化して全体で整合をとって動くようなものの方がシステムとして、ソフトウェとしては強い」との意見だ。ぼくは深く納得してしまった。
それはきっと、会社、社会の仕組みとしても同様なのだろう。
計算機科学を学び、その末席を汚した身。就職してからは直接手を動かす事がなくなり、エンジニアとしては腐ってしまっているぼく。だけれど、何かの間違いで人を下につけたり組織を動かすことがあれば、その仕組みってやらに、計算機工学の知見を当てはめられたらなって思う。
それがぼくのささやかな「管理職としての意識」というやつだ。