立て直せ、人生。

人生行き当たりばったりなアラサーが、無事にアラフィフになれるように頑張らないブログ

折りたたみ平成

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ふと気がつくと、平成最後の一年は残り半分と少しとなり、最後に伏線を回収するかのごとく、様々な出来事が起き続ける。

水害に地震に台風に……著名人もたくさん亡くなり、まるで平成が最期を急いでいるようにぼくは感じてしまう。

「元号なんて、変わってもそう大差ないよ」

そうやって昭和産の年上の飲み友達は言うけれど、ぼくは違うと思う。元号が変わったことを合図に、ぼくらの生きた時代は、平成という名の過去のアルバムへと綴じられてゆくのだ。

意識が変われば時代が変わる。行動が変わるから。平成に自我が芽生えたぼくは、そう考えている。常ににバブルという名の祭りの後のような、どこか重苦しいような寂しいような空気の伴い続けた「平成」という時代が終わることが、ぼくは少し楽しみである。

「何言ってるんだ、おまえは。昭和最後の年の生まれのくせに」

そうやって鼻で笑われもするけれど、ぼくは気にしない。

ところで、ぼくの年齢イコール平成である。少し思い返してみる。7歳、1995年はマンションから今の実家に引っ越し、地下鉄サリン事件が起きてWindows95が発売された。バブルの残り香がなくなった暗い時代だ、そんな風にいわれたが、「いま」しか知らない幼いぼくにとっては、かつての栄華のはなしは、まるで遠いお伽話のように感じた。

2000年。12歳の頃、自宅にインターネットのなかった僕が、親戚のうちや有料パソコンコーナーで2chという怪しいインターネットにアクセスしたその年、その掲示板ではネオ麦茶という言葉が踊っていた。わけもわからず眺めていたが、後日それが殺人者の犯人であると知り、ぼくは恐怖した。テレビの向こう側の殺人事件は、遠いどこかの世界の出来事ではなく、ぼくと同じようにパソコンを操作して、この文字列を入力し、そして事に及んだ……同じ世界の住人なのだと。

2001年。13歳。風呂上がりにパジャマを着てニュースを流しながら宿題をこなしていると、緊急ニュースで飛行機が飛び込んで行く姿を目にした。ぼくは唖然としてニュースを眺め、ビルの倒壊するさまを目撃した。そしてペンタゴンへの突入、飛び交う混乱したニュース……。
そのニュースを、ぼくは少し浮かれた気分で見てしまったことを記憶している。何故だろうか?どこか鬱屈した世界を変えてくれそうな、なんだかそんな気持ちを覚えてしまったのだ。

2011年、3月11日。おおきな揺れとともに、自宅が停電した。揺れが収まり家を出ると、アパート前の駐車場に不安そうな人々がでてきた。ある部屋から冷蔵庫に阻まれて家を出られなくなった、助けてくれと助けを求められ、助けに向かった。薬局併設のバイト先のコンビニに向かうと、一晩中復旧作業に追われた。店の前には一晩人びとがたむろし、時折「買い物をさせろ」と、閉じたドアを開けて入ろうとしてきた。

……人は、どうしてだか悲しい思い出や陰鬱な出来事ほど良く覚えている。そして、年を経るほど、おおきな出来事でも小さく感じるようになってしまう。だから、子どもの頃から刷り込まれた「バブルを知らない可哀想な、貧しくなる国に住まう子どもたち」であることが、頭の片隅から離れない。30になっても、まるで呪いのように。閉塞感は、常にまとわりつく。

さてしかし。そんなものを引きずっていたって何も始まらないのである。親どもが引きずっていた、過去の煌めきにあてられて、今を悲観し過ぎることはない。今はきっと過去より良い。倫理観も上がっているし、娯楽も増えた。オタク気質のぼくには、うってつけの時代だ。なにしろ、親どもの世代には、ぼくのいまのIT系の仕事はなかったろう。

過去は「なかったこと」にはできない。完全に仕切り直しての未来を作ることはできない。でも、過去を折りたたんで土台にして、その上に未来を築いてゆくことはできる。失敗した過去を変えることはできなくても、これからに生かすことはできる。

ぼくらに出来る、過去と言う名の亡霊に出来ることはなんだろう?それは、振り返らないこと。だってぼくらは若いのだから。足を掴まれて引っ張られても、ふりほどけばよい。時間が経てば、やがて棺桶におさまってゆく。前向きに明るくぼくらが生きること、それが肝要。それのきっかけに、何かの区切り、元号の切り替わりが何か寄与してくれると良い、そんな風に楽観的に思うのだ。