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国民全員がニートになったら?現代ディストピア小説「我もまたアルカディアにあり」感想と考察

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我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

「世界の終わりに備えています」
そう主張する団体が建築する、アルカディアマンション。それは窓がなく、常識はずれの分厚いコンクリートの壁から作られたマンション。入居費用も生活費も不要、働かずとも生活が保障され、ただ娯楽を消費すればよいと言われる環境で人々はどう過ごし、どう生きるのか。

この作品では、 御園洛音(らくね)と、妹フーリーの夫婦を初めとするオッドアイの一族の物語が2世紀〜3世紀ほど描かれる。アルカディアマンションと呼ばれるありとあらゆる災害を想定したシェルターと、それを取り巻く環境、そしてそこに住む人々の物語。

御園洛音の一生の物語が描かれる合間に、彼らの子孫の物語が4つほど差し込まれる。どれも時代が離れており、時間を隔てた群像劇的な作品となっている。ひとつひとつの短篇は、それぞれ独立して楽しめる作りとなっている。

この作品の魅力

この作品の魅力は、「終末を迎えた世界」というものを200年超という長いスパンで描き出しているというのに、まったくダレない点だ。御園洛音の子孫にフォーカスを当て、その時代の人々の生活や想いを描き出す。

創作のために身体をそぎ落とした男の物語、 「クロージング・タイム」 。アルカディアマンションの建造現場で出会った男女が、変わりゆく世界のなかで生きて行く物語 「ペイン・キラー」 。大気汚染された世界のなかでバイクに乗りたい男と、そんな男に片思いする少女の切ない恋物語 「ラヴィン・ユー」。産まれながらにして革命者として、あるいはテロリストとして運命づけられた男の物語、 「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」

短篇一つとりあげても、その世界に生きる人たちの考え、想いなどが詰め込まれている、骨太な物語。そして、それらの短篇を通じて、テロ、自然災害、原発事故などで荒廃した終末世界に生きる人々のしたたかさなどが描きだされる本作品は、現代的ディストピア小説として間違いなく名作だ。

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

ネタバレありの感想と考察

個人的に気に入ったのは、「ラヴィン・ユー」と「クロージング・タイム」。

「ラヴィン・ユー」では、面倒な男に惚れてしまった女の子の心理描写が秀逸だ。なんで面倒な男に惚れてしまったのだろうか、しかし、こういう面倒さがないと私は惚れなかっただろう……という葛藤が、瑞々しく描き出される。

そして、「ラヴィン・ユー」では、忘れてはならないのが、バイクの伏線だ。バイクに興味のなかった御園末莉が、興味を持つようになった切っかけ。そのバイクに対する想いが、「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」の綺麗な着地を演出する。

一方、「クロージング・タイム」は対極だ。ストイックに自分の身体を追い込む男が事故に遭い、その身体を実験台のように切り刻み、機械に置き換えていく女。そんな男と女の、心地よい距離を保ち続ける物語は、達観した様子で「ラ・ヴィンユー」とはうまくコントラストを成す。

「せめて十年前にそれを聞いて下さい」
「死ぬまでお付き合いしますよ、恋愛抜きで。どうせ御園さんのほうが先に死にます」
それもまた、恋愛成就のような気がしないでもない。

また、「クロージング・タイム」では、世界が大きく変わっていくさまを描き、現代社会と、ディストピア世界の間を、うまく橋渡ししている。

そして、最後の「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」はズルい。反体制のテロリストに運命づけられたサイバネティクスの塊のバイク男と、体制側の警察(実は女)。男の乗るバイクは「ラヴィン・ユー」で出てきたバイク。女はそのバイクに感化された女、御園末莉の孫であり、二人の出会いは運命づけられたもののようだった。

そして、トドメを刺すように御園洛音の亡くなる最後の想い。それは、別れたあと、二度と会えなかったフーリーとの無線通信のやりとり。

「もう一度会いたい。どうやっても。何があっても。お前に。フーリー」
「会える可能性を死ぬまで持ってけ。私もそうする。何なら子供らに託す」

この想いは「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」で成就する。そして、作品は幕を閉じるのだ。

「どうせ大して世界は変わりはしないのだ」。どんなに世界が変わったって、他力本願な人たちってのは変わらないし、暇を持て余して仕事に就く人も居るだろうし、革命家だってできる。大きく変わった世界に、大して変わらない人間、そして愛。

現代ディストピア小説の傑作だ。