立て直せ、人生。

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シン・ゴジラを観て3.11をフラッシュバックした

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シン・ゴジラについては、実は封切り2日目に観に行った。知り合いの特撮ヲタたちが、「音響の良い劇場で観るべし」ということだったので、IMAXで上映している劇場を探して行った。

そしてぼくは泣く。悲しさだとか辛さだとか、そういう感情を認識するよりもはやく、身体が勝手に反応して涙が溢れた。

ぼくは、シン・ゴジラを3.11やそのほか震災の経験がある人には是非観て貰いたいと思う。しかし、同時に安易には勧められないな、と思う。余りに良くできすぎていて、人によっては最後まで観ていられないとも思うからだ。

シン・ゴジラについては、多くの人が素晴らしい感想や考察を書いている。なので、このエントリではぼくの純粋な想いや感想を、少し綴ってみたいと思う。

以下、ネタバレ注意

何の感傷もなくあっけなく死んでいく人たち

ゴジラ歩く。人々は死ぬ。

ゴジラなんだから当たり前の映像だけれど、ぼくはそのシーンを観ている間、唐突にこみ上げてくる涙を堪えるのに必死であった。ぼくは、3.11のときにギリギリ被災地域に住んでいた。次々とテレビで放映されるがれきの山、止まらない余震、無くなる食べ物、爆発する原発、息も絶え絶えで薬局にやってきた女性のこと。様々な記憶がぼくの頭の中に蘇ってきて、思わず目を覆いたくなった。

生きているっていうのは、時間の積み重ねだ。日常っていうのは、ほんの些細な違いの積み重ねだ。だから、社会に出たり上京したり、大きく環境を変えるとなると、それまでの連続性が絶たれ、まるで別人化のような人生が開ける。

それは前向きな変化だ。しかし、災害ではそれは違う。自分の意思ではなく、外部的な要因により、唐突に日常が終わりを迎える。病に蝕まれてゆっくりと死にゆくときと違い、覚悟をする暇はない。即死でない場合は、混乱の中自分が死にゆく恐怖と、残される家族たちへの想いがない交ぜになって息絶えて行くのだろう。

それは、想像を絶する。

映画のなかでは、登場人物たちのバックボーンは描かれない。淡々と死にゆく一般人が描かれ、自分の役割に没頭する人たちがそれ以上の被害を出さないように精一杯に活躍する。

「シン・ゴジラにはドラマが無いからダメだ」

そういう人も居たけれど、ぼくは違うと思う。描かれないからこそ、どう受け止めるのかは人それぞれなのだ。きっと誰にでも家族があって、家庭があって、守るべき人がいたはずなのだ。そのようなところの描写は無くたって、ぼくたちは自前の想像力で補うことができる。

だから、劇中で立川の拠点へと避難したあとに、主人公の矢口が口にした「愛する人を失った人もいるのに、良く生きてここに集まってくれた」という言葉に、ぼくは何度目かの涙がこみ上げた。なぜならば、そこまで敢えてそのような言葉を口にしなかった理由を、そのタイミングでその言葉を口にした理由を、様々に思い巡らさざるを得なかったからだ。

シン・ゴジラの主人公は「日本」そのものだ

さて、ここまで書いて少し落ち着いた話をしたい。

物語というのは、おおよそ誰かの変化を描いている。成長物語だったり、またその逆の没落する物語だったり。様々あるが、今回のシン・ゴジラの本当の主人公は誰だったのか。

ぼくは、日本という国を現しているのだと思う。

ゴジラという震災を、日本はどのように対処するのか。個であるゴジラと、群れで成る日本。どちらも成長し激しい戦いを繰り広げる。日本を構成する官僚、国民たちが、自分たちの住む場所を守ろうとあらゆる手を尽くし、ゴジラに打ち勝つ。組織として目を見張る成長を遂げた日本は、またしぶとく再生するだろう希望を示される。

悲劇があったとしても、その後には希望がある。

途中までが悲惨な映像の連続だったけれど、こういった幕引きで明るい気持ちで劇場がでることができた。重いテーマを扱いつつエンタメを忘れない、配慮がされていることに感謝した。

さいごに

「そんな意図じゃないだろ」「いややっぱり伏線回収の美しさがイマイチ……」「ゴジラが動き回って暴れる、それでよい」などなどと、様々な評が出回っている。

ただ、一つ言える事がある。誰も彼も様々な視点で批評や批判をしたくなる作品。そういう作品は素晴らしいのだ。

作り手が意図したか否か。そんなことはどうでも良いのではないかと思う。あーでもない、こーでもないと、受け取りっぱなしではなく、きちんと消化してゆく、そんな作品は紛れもなく名作なのだと思う。

つぶやき

しかし、どことなく嗅ぎ取れる押井イズムは何なのだろうか。パトレイバー2のように東京で戦争をしているから?「虚構x現実」だから?それだけで片付けられない、押井感を感じるのだけれど、うまく言語化できない。

押井作品ならば、「本当にゴジラは虚構だったのだ」としてしまうはずだし、めまぐるしく進むお話、テンポの早いカットも、ダレ場を大切にする押井監督とは似ても似つかないはず。どこから感じてしまうのだろうか。