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加藤千恵「ラジオラジオラジオ!」を読んで胸が痛くなる

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青春時代は、往々にして「痛い」。自意識過剰で、自分勝手で、ここではないどこかに行けば、きっと未来が開けるはずだ、そう疑うこともなく信じ込んでいたりする。

ラジオラジオラジオ!

加藤千恵「ラジオラジオラジオ!」を読んだ。2001年を舞台にし、受験を控えた等身大の女子高生を描いた本作品は、読んでいて「痛い」。それは、冒頭にも書いた通りだ。

主人公のカナは、トモと一緒に、週に一度地元ラジオ局の女子高生パーソナリティーになる。カナはテレビ局を目指し東京を夢見る。トモは地元の学校へと進学するとしている。そんな二人がすれ違ってゆく物語。

はじめに簡単な感想を述べておくと、とても地味な物語だ。2001年当時の雰囲気が驚くほど明瞭と描かれた作品で、正直「これ2000年代初頭に描かれた作品では?」と思ってしまうほどであった。端的に言って最新の作品なのに古くさい。

主人公は痛いし、読んでいて目を背けたくなる。派手な事件も盛り上がりもない。けれど、それでも、ほとんど同じ時代を生きたぼくにとっては懐かしく、あの頃を嫌でも克明に思い出してしまい、ページを繰る手を止めることができなかった。

青春は、痛い。

自分の楽しいことは他人も楽しいはずって、無邪気に思ってしまうことがある。相手も楽しんでくれてるって信じて疑わない。子供のころには、まだ大人になりきる前には、そんな風に思っていた節がある。

けれどそんなことはない。自分が「相手もそうあるはずだ」と信じて疑わなかったことが違ったことに気づいた時には、天地がひっくり返るような気分になる。それこそ、中高生の頃なんていうのは、世界は友達と家族とで閉じた世界なのだから、余計にそうなる。

自分たちは水槽の中にいて、あらゆることは水槽の外で起きている、という感覚。

外のことは見えていて、理解していて、時に心配はするけれども、それの温度を感じることができない––そんな風に主人公は考える。自分とは関係ない、そんな風に考え実感が伴わないという。

けれど、友達と起きたことは水槽の内側だ。

小さなコミュニティの中から大きなコミュニティへと踏み出す境目の高校生という時代。水槽の中から水槽の外のことに憧れるけれど、外の物事には頓着せず、内側のことに気を取られる。そんなちぐはぐな様子が、鮮やかに描き出されていて、だからこそ読んでいると胸が痛くなる。顔を覆いたくなる。やめて、って言いたくなってしまうのだ。

「友達も同じことを思っている」、そう無邪気に信じていたことが違うのだと突きつけられたとき、その絶望はたいへんに大きなものだ。乗り越えるのは相応の苦労が伴う。気の合う友人だもして、自分と違う人間だということを認識し、対峙せねばならない。けれど、だからこそ、自分とちがう誰かと交流することは楽しいのだ。ラジオとテレビのように、違うからこそお互いの面白さをみつけることにより、仲を深めてゆくことだってあるのだ。

短編「青と赤の物語」

一編、収められている短編が「青と赤の物語」。

物語が禁止されてしまった世界のおはなし。図書館で知り合った、お互い本名を知らない男女は、お互いを「青」と「赤」と呼ぶ。まるで、おとぎ話のような絵本のようなストーリー。

禁止された物語によって、二人はどんな風になるのか。読み終わったあとしばらくして、また読み返したくなるような、そんな作品。非常に完成度の高い、短編だ。ぜひ、「本嫌い」の子供に読んでもらいたい。というか、絵本で出たらとてもすてきだと思う。

さいごに

ダイアルアップ音を立ててテレホーダイの時間にパソコンをする、流れる音楽はポルノグラフィティの「アゲハ蝶」、ラジオのオープニングテーマはaikoの「ボーイフレンド」。携帯電話はワン切りで連絡しあい、テレビでは911がニュースで流れる。

インターネットや携帯電話というものが普及し始めのころの時代のにおいというのは、その時代を生きた者にとってやはり強烈だ。作中に差し込まれる「2001年」のアイテムや描写が、一気にその時代に連れてゆく。

正直、最後に向けての主人公の気持ちの移り変わりが駆け足だなあと思ったし、物足りなさ感は残る。

それでも、古臭く懐かしいこの青春小説は、アラサーの人が読むと、あの頃の懐かしい雰囲気にアテられてしまうこと請け合いだ。