立て直せ、人生。

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ものを書くという、悪癖について。

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ものが書くことが好きだと思う。

そうでないと、ブログを書いたり、小説を書いたりなどはしない。

いっときは、テクニカルライターなどを目指してみようか?などという気持ちがこみ上げてきたこともあったが、飲み込んだ。
なぜならば、技術記事を書いたとき、あまりよい思い出がないからだ。それも、一回ではない。

自分の原稿が編集ミスででたらめに組み込まれたゲラが返ってきたことがある。一度でも流し読みしていれば気付くレベルだ。
また、分量が足らないから、と勝手に加筆修正されたこともある。ところどころで文章のリズムが違う、グロテスクなものになっていた。印刷所への入稿日ギリギリまで待ってもらい、書き直した。

就職後に本業関連の記事を依頼され、共同執筆をしたときにも、酷い目にあった。技術的に間違いのないように気を遣って書かれた原稿たちたったが、地味だからと、断りもなくキャッチーに「勝手に」書き直された。
何度「この表現だと間違いです、理由はこうだからです」と言って突き返しても、理解してもらえず、また違った改変をされて間違いが埋め込まれる。 pdfの注釈機能で大量に「表現の背景」を書き続けた結果、原稿そのものよりも注釈の方が量があるのではないか?とげっそりしたことを記憶している。

技術記事において、正確性を保ちつつ分量を減らすには、幅をもたせた表現を選ぶしかない。たとえば、おおむね、傾向、などという言葉を使うことだ。
しかし、これらの言葉は歯切れが悪い。キャッチーに人の目をひくような記事となるようにリライトすると、間違った記事になってしまう。
単に、嘘を書きたくないだけであるのに、消耗するやり取りを繰り返した。
最終営業日、本業を止め、年末忘年会をフイにして対応を進めるなか、転職するとしても出版系に行くのは無理だな、と感じた。

それでも、僕はなぜか性懲りも無くものを書く。悪癖と言っても良い。

文章なんていうのは、ほかの表現方法に比べたら圧倒的に不利だ。絵画は限られた平面の配置に様々に多面的に意味を込めて描ける。漫画はそれが連続し、映像はそれに時間軸が与えられ、動きを獲得してコンテンツの王者として君臨する。

いっとき、映像制作を趣味にしていたことがある。他愛もない写真を撮り、カメラを回し、好きな音楽にのせてテンポよく表示する。エフェクトをかけて、不意打ちで笑いを狙う。
楽しかった。わかりやすく、あるいはわかりにくく繋がりをもたせ、意味を理屈で作り込んだ。それを、感性で気持ちよく仕上げる。次第に、気持ちよさのなかには理屈が転がっていることを発見したりする。

それでも僕は今、映像を作るのではなく、ものを書く。

それは、手軽に楽しくつくれるからだ。映像制作は、それなりに金のかかったPCに、高いソフトがないと、満足いく作りにはならない。けれど、文章は、携帯電話で書いたって紙で書いたってパソコンで書いたって良い。
それに、表現の幅が狭いからこそ、挑戦のしがいもある。気楽に始めて、追い始めると終わらない。単なる文字の集合体が、読み手の想像力の力を借りて、大きな物語を紡ぐ。ひとつの文字列の集合体から読み手の数だけ世界が広がるさまは、想像しても、愉快だ。

日本には、短歌や俳句という文化がある。それらは、たった17文字、31文字で世界を無限大に展開する。それはほとんど、魔法と言っても良い。
限られた道具で、いかに戦うか?と考えるのが、僕にはとても楽しく感じる。今こうして書く文章はまだほど遠いけれど、いつか「彫琢」だなんていう言葉を使えるような、そんな文字使いになりたい。