『It's a Sony展』に行って、ときめき切なさが止まらなかった
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銀座のソニービルが取り壊しになるという。
銀座のソニービルは、1966年4月29日にオープンした。 日本で一番地価の高い銀座の一等地、設計者は東京オリンピックの駒沢体育館などを設計した芦原義信氏。 後のソニー社長となる、創業者メンバである盛田昭夫とホテルオークラで徹夜でディスカッションをした。
そして、ものを売る場所ではなく、ショールームとしてこの場は築かれた。 当時世界最速のエレベーターを備えた最新鋭のビル。一階ぶんを田の字型に4つに区切り、一回りすると一階ぶん上がるという斬新な構造を取り入れている*1。
当初はトヨタ、サントリー、富士ゼロックスのショールームなども共存しており、晴海側の壁面には2300個ものテレビを並べていたという。
この、銀座の象徴的ビルが、なくなる。東京オリンピックの年に着工したビルが、2回目の東京オリンピックを目の前に、なくなる。
ソニー展のときめき
このビルなのだが、50年前のビルとは思えない美しさである。 一種無機質とも思えるようなビルのフォルムは、古くささを感じない。丁寧にリフォームされているだろうビルの内部は、ぴかぴかとしていてとても来年取り壊されるようには思えない。
そんなビルの中には、あのときのわくわくさせてくれた電気製品達が、所狭しと並んでいる。
製品たちの紹介
製品達は、初めは著名人達の思い出の品がコメント共に展示されている。そして、順を追って時代ごとに整理された製品たちが現れてくる。
紹介文がなかなか読ませるもので、自虐的に売れなかった商品を紹介していたりで、展示を回るのにも結構な時間がかかる。
いくつか、面白い展示を紹介したいと思う。
グラストロン(1996)
これは、ピエール瀧の私物、2メートル先に52インチ相当の画面が出現!との言葉に惹かれて買ったのだという。
炊飯器(1945)、鍵盤模写電信機(1945)
手前木のおひつが、炊飯器である。SONY前身の、東京通信工業株式会社における、記念すべき失敗第一作、と説明にある。 「木のおひつにアルミ電極を貼り付けただけの粗末なもの」(原文ママ)で、うまく炊けるほうが希だったとのこと。
少し奥のタイプライターのようにもみえる機械は、モールス信号の機械だ。 カタカナをモールス信号化し、送信。受信側は、紙テープにその結果を印字する。
試作機は好評だったそうだが、そもそも需要が少なくて売れなかったそう。
電気座布団(1946)
社員の家族総出でミシンがけなどの下請け作業をしなければならなかったほど、売れに売れた製品だという。 石綿もサーモスタットも入っていない、少々恐ろしい製品。 「これを東京通信工業の名前で売るのは……」ということで、"銀座ネッスル(熱する)商会"という名前で売り出したとか。
G型テープレコーダー(1950)
日本初のテープレコーダー。大卒初任給4000円の時代に、お値段16万円、重さ35kg。
使って貰うとみんな驚いてくれたとのことだが、さっぱり売れなかったそう。
世界初のポータブルトランジスタテレビ TV8-308(1960)
ポータブルテレビっていうと、ぼくが子供の頃にも憧れだった。 そんなものが、こんな昔からあったと考えると、胸がときめく。
ただ、説明文にはこうある。
「まず、据え置きを買うのが当たり前の時代だったので、金持ちの物好きしか買ってくれなかった」
ただ、その二年後に発売されたポータブルテレビ「TV5-303」は、ニューヨーク五番街のショールームに毎日7,000人が押しかけるような人気作だったという。
デザインなのか、マーケットの違いなのか……。このように、同じようなコンセプトの作品が、片や先行商品は失敗作扱いなのに、その数年後の後継製品は大ヒット作となっているものがあったりする。 技術や経済の成長を感じられ、大変たのしい。
ポータブル電子計算機 ICC-500(1967)
なかなかかっこいいデザインで、大変便利そうなのだけれど、こいつ、重さは6.3kgほど、お値段なんと26万円。
当時の大卒初任給が26,200円とのことであるので、年収ちかくのお値段がした計算になる。
初のトリニトロン管テレビ 「KV-1310」(1968)
ソニーは当時、画質がイマイチな、シャドウマスク方式ではなく、よりよい画質を求めて、クロマトロン方式のテレビを開発しようとしていた(参考)。 しかし、なかなか完成せず、研究費はふくれ続け「苦労マトロン」と社内でも言われるほどであった。
そんな苦労をして、新しい技術を生み出したのが、新方式「トリニトロン」である。
トリニトロンはソニーの主力製品として有名となり、その後2008年まで、41年間生産され続けた。
1970〜1980年代のSONY
さて、ぼくにとってSONYってどんな会社だろうって考えてみる。
SONY好きの一家が近所に居て、色々な製品をSONYにしていた。 テレビ、ステレオ。 ぼくにとっては、SONYは「複雑で高くて壊れやすいけど、でもかっこよくて性能が良い」というイメージだった。
写真のような製品をみていると、そのようなイメージを抱いていた頃の記憶が蘇ってきた。 この商品らは1970年代の製品なのだけれども、僕が懐古趣味だっていうのを差し置いても、垢抜けたデザインになっていると感じる。
とくに、このジャッカル300には心惹かれた。1976年の商品、「AM/FMラジオ、カセットレコード/プレーヤー、白黒3インチTV」が使える商品。
ラジオとテレビとカセットで「ラテカセ」。もしぼくが当時生きていたら、何を差し置いてもこんなの買ってしまう。っていうか、今でもこんな製品あったら欲しい。夢が全て詰まっている。
1975年にはカラーテレビの普及率が90%を越え、あのベータマックスの第一号機SL-6300が発売される。そして、翌年1976年にVHS規格の機器が発売され、ベータVHS戦争が勃発することになる。
1980年代にはいると、ステレオやビデオなどに庶民に手が出せるようになってくる。 ステレオ系の商品はスタイリッシュになるし、ビデオカメラは10年足らずで、高値の華から普及レベルまで一気に進んでいる。
展示では、ビデオカメラの進化の速度が見て取れる。
展示のビデオカメラ製品の流れを追ってみるとこうだ。 1980年にビデオカメラの試作機が作られる。
そしてその3年後の1983年、ベータマックスのビデオカメラ1号機が発売される。
そして、ベータマックスのビデオカメラからわずか6年後年後の1989年。 ここまで小さな8mmハンディカムが作られるのだ。 当時の技術発展の速度を想像するだけで、どこかわくわくしてしまう。
「今は買えなくても、来年には……でも、きっともっと凄くてもっと高いハイテク機器が出てくるんだろうな」
1987年に生まれたDAT。ぼくは学校の視聴覚室の中、そしてエヴァの中でしかみたことがない。 ただ、当時は「プロが使っている、なんか凄い音質のテープなんだ」という認識で、何故だか憧れ、大きくなったらいつかDATのデッキを買うんだって、夢を見ていた。
1990年〜2000年代
さて、ぼくが生きた1990年代。 その時代のソニーのイメージは、AIBOとVAIO、そしてプレイステーションだ。
AIBO
AIBOは1999年の受注生産モデルから始まり、2006年に生産を終了した。 展示では、開発機のAIBOから歴代展示されている。
このAIBOの組み合わせ、なんか百合っぽい……って言ったら、一緒に行っていた相手に「何言ってんだこいつ」「AIBOに性別もなにもないだろう」と言われてしまった。
AIBOって、どのモデルも大変に愛嬌がある。 ペットの悲しみって、やっぱり「死なないこと」だと思うんだけれど、それを実現しようとしたAIBOは画期的だったと思う。
しかし2014年、AIBOの修理受付は終了し、修理できないAIBOが事実上の死を迎えたことが話題になる。 ドキュメンタリー番組が組まれもし、SONYのOBらによって、 修理受付をしてくれる会社もできた。
このあたりの展示をみていると、SONYの絶頂、そして2003年4月に発生したソニーショックが思い出されて、切なくなる。
プレイステーション
プレイステーションが出た当時、ぼくは任天堂のハードしか持っていなかったんだけれど、周りの人たちが次々と買っていったことを覚えている。
任天堂にはない、ちょっとハードでオトナっぽいゲームがあるってんで、新鮮だった。
ぼくは、PS3が出る頃にはすでにゲームを卒業していたのだけれど、当時大学に入りたてだったぼくらには衝撃だった。 信じられないスペックで、まさに「ご家庭のスパコン」。
搭載されているCellプロセッサの特性と、その高性能さにより軍事利用されている、などの記事が上がったりもして、 ゲームハードオタクや、コンピュータアーキテクチャオタクの人たちは興奮していた。
ただ、その後PS3の高コスト問題によるためか、家庭用ゲーム機の市場の縮退か、元気がなくなってしまっていった。
今のPS4は、x86という、パソコンなどに採用されている一般的なアーキテクチャが搭載されている。 カスタマイズされているとはいえ、個人的には「なんだか夢が無いなあ」と感じてしまう。
VAIOについて
VAIOは、ついぞ僕はユーザになったことはなかったのが悔やまれる。
SONYのVAIOは、とてもスタイリッシュで、2004年ごろ、初めてのパソコンを買うときに最後まで悩んだ記憶がある。 ほかのメーカーパソコンが野暮ったいデザインを採るなか、一線を画すデザイン。
ただ、どうしても価格をみると尻込みをしてしまったのだ。
また、小型のPCというと、東芝のlibrettoや富士通のLOOXなどが思い浮かぶが、ソニーのVAIOはその中でも特に魅力的な商品であった。
両手に収まるようなサイズでスライド式キーボードのTyep U、横長の小さいType Pなど……。一目みたら欲しくなってしまうような商品ばかりであった(が、やっぱり価格がネックでユーザにはなれなかったのだった)。
携帯電話について
当時、ぼくが夢中だったのは携帯電話だ。 毎年、あるいは毎季ごとに出る新モデルは、各社しのぎを削って新機能を搭載する。
ほんの数行しか表示できない携帯電話の液晶が、ゲームができるほど詳細になり、カラーになる。 着メロも、短音から16和音、32和音と進み、最後には音楽まで流せるようになる。
1990年代末から2000年代前半にかけて、携帯電話の進化は恐ろしいスピードだった。 当時、普及していたポータブルMDプレイヤーであったが、携帯電話はいつのまにかSDカードスロットを搭載し、MP3というデジタルフォーマットの音楽も再生できる、何でもできる小箱へと突き進んでいった。
ただ、2000年代半ばを過ぎると、その端末の進化にも陰りが見えて、然程その進化が楽しめなくなる。 思い返してみると、2000年代前半はITバブルのまっただ中であり、日本も多少なりともその影響を受けていた時期だ。
そして、2007年、iPhone発表、2008年、日本発売。ぼくは、当時SHARPのW-ZERO3とSONYの二つ折り携帯を利用していたが、二台とも契約を解約し、iPhone3Gへと乗り換えた。それから8年、ぼくは未だにiPhoneを使っている。
さいごに
はじめはわくわくして楽しんで観ていたんだけど、ちょっとずつおセンチな気分になってしまうソニー展。
子供の頃は、「欲しいもの」に溢れていた。 携帯電話やパソコンのカタログの新しいものが出たら、学校帰りに家電屋で貰ってきて眺めたりした。
いまは、どこか新製品に冷めた目を向けてしまっている自分を見つける。 それは、もしかしたらぼくがすり切れてしまっただけなのかもしれない。
大体スマホで何とかなってしまうし、パソコンやテレビを時々買い換えるだけ。 そんな風に満たされてしまっている今の生活は幸せなのかもしれない。
けれど、やっぱり「何に使うんだよこれ!でもめっちゃ欲しいわぁ……」っていうような、 そんなとびきり尖った製品をまた作り出して欲しいし、そんな製品を思わず買ってしまう、 そんな浮かれた景況感を一度味わってみたい。
あのころのときめきを、また。
展覧会情報
Part1はこの展示、Part2は音楽イベントなどが開かれるとのことである。 どの世代の人も楽しめると思うので、是非一度足を運んでみてほしい。
- 会期 〜2017/01/22(日)
- Part-1: 2016年11月12日(土) 〜 2017年2月12日(日)
- Part-2: 2017年2月17日(金) 〜 2017年3月31日(金)
- 会場 「銀座ソニービル」
- 最寄り駅
- 東京メトロ丸の内線、銀座線、日比谷線 銀座駅 B9番出口から徒歩1分
- 山手線・京浜東北線 有楽町駅から徒歩約5分
- 定休日 2017年1月1日(日), 2月20日(月)
- 料金 無料
- 営業時間 11:00〜19:00
- 2016年12月9日(金)・10(土)・16(金)・17(土)・23(金・祝)・24(土)・30(金) 11:00-20:00
- 2016年12月31日(土), 2017年1月2日(月)・3日(火) 11:00-18:00
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