飲み屋横町、そして雑な居酒屋の魅力
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ガヤガヤとうるさく、店の中と内は、ただビニールにのみによって隔てられている。あるいは、場合によってはそんな仕切りさえなく、椅子と机がただ並べられて、そこに座りジョッキを片手に持つ。
あるいは、昭和一桁生まれくらいの年季の入った建物に、建物よりかは幾ばくか若々しい老夫婦が、阿吽の呼吸で小さな小さな調理場で、客と雑談を交わしながら料理を作り上げてゆく。
雑な居酒屋っていうのは、2016年、日本の中心の東京にいたとしても、未だにそこかしこで生き残っている。ぼくは、そんな雑な居酒屋が好きだ。休みの日になると、そんな店に出逢うために、財布を携えて家を出てしまう。
人同士の出会い
先日、とある焼き鳥屋へ行った。そこは、相場よりも2割か3割ほど安いというのに、味は引けを取らない。焼き方もうまい。多少待ったとしても、やはり食べたくなるような店であった。 そこで、友人と2人して喋っていると、右隣のテーブルのお姉さんが話しかけてきた。年は3つか4つか上で、鹿児島出身なのだという。
「ここ、安くて美味しいからね、ついきちゃうのよ。旦那に子供任せて」
けらけらと楽しそうに笑い、ハイボールを片手にするその女性は、心の底から楽しんでいる様子である。
「ここの串は、どれも美味しいんだけれど、是非食べて貰いたいものがある」
声がする方をみると、左隣で一人で新聞を読んでいた初老のおじいさんが、僕らに向かって話しかけていた。 おおぜひ食べよう、と僕らは注文するが、一方でおじいさんは「わしはもうお腹いっぱいだから」と言う。すると女性が「じゃ、皆で取り分けましょうよ」などと言って注文しだすものだから、めいめいそれぞれが「みんなで食べよう」と好き勝手に頼み始める。
結果、沢山の食べ物と酒とでテーブルが溢れかえり、ぼくらは互いに顔を見合わせて笑った。
違う文化との出会い
ある日の夕方、下町の繁華街を歩いていた。カメラも持たず、適当にぶらぶらと歩いていると、良いにおいが漂う。においに誘われて歩を進めると、そこには人だまりがあった。民家の一階にあるコンクリートの打ちっ放し、普通なら駐車場にするような場所だ。
不思議に思って覗くと、どうやらそこは居酒屋のようだった。テレビが壁にかかり、競馬中継が流れる。初老の男性たちは競馬新聞を片手にテレビを観て歓声を上げている。気になって近づくと、若い店員らしき女性が声をかけてきた。
「らっしゃい、でももう時間が遅いし、つまみがほとんどないんだ。あるもんでよければ。何にする?」
ぼくは生中一杯290円、ホッピー230円という値段に驚く。酒とつまみを頼み、乱雑に置かれたテーブルの上にジョッキを置いた。赤ら顔のおじいさんたちは上機嫌に自分の予想を話したり、家族の話をしたり。「よお兄ちゃん、若いのに珍しいな、こんなところにくるなんて」カチン、ジョッキをぶつけてぼくは会釈をする。
まるで、こち亀でみた下町の世界だった。何でも無い日常であったけれど、何故だか愉快な雰囲気で満たされていて、ただその空間にいれば、自分も愉快なことが出逢えるような、そんな気分にさせてくれる。
消えゆく飲み屋街
昨今、東京の再開発が続いている。東京オリンピックが決定してからは、特にそのスピードを増し、街は綺麗になってゆく。無論、整頓され整備された街並みというのは美しい。オレンジ色の淡い光が、磨き上げられた石床を照らし、落ち着いた「街」を演出する。
けれど、そんな街の整備で、昔ながらの「飲み屋横丁」や「ガード下の居酒屋」が消えゆくのは口惜しい。席を譲り合い、たまたま横になった見ず知らずの人と一晩だけ人生を重ね合わせる——そんな、人情味溢れる居酒屋は、まるで人生の交差点だ。
再開発が進むなか、未だその姿をのこす「雑な居酒屋」たち。もしかしたらその姿を拝めるのも、今だけかもしれないと思うと、ついつい財布を掴み、今日もまた居酒屋に繰り出してしまうのだ。