友人とする貧乏な遊びが楽しかった
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こちらを読んで、ぼくの周りの男の場合を考えてみた。
ぼくは浪費家で社内にも名前が轟いており、先月などは「飲み会費」が5万の大台を越え、そっと目を閉じ家計簿アプリを終了した。
社会人になり、友と一緒に遊ぶ、そのハードルが格段にあがった。 学生時代は、ほとんどの人が下宿をしており、夜の10時に「酒を飲むぞ」とメールを流せば、たちまち4、5人が酒瓶を片手に部屋に集まり、酒盛りが始まった。
築三十年以上のアパート、6畳一間に大きめのコタツ、皆で足を突っ込んで酒瓶を抱え、くだらないB級映画を眺めて語り合った。
あるいは、中古で買った、クラッチの磨耗した自動車に乗り込み、夜の11時に「海を眺めに行こう」と言って、片道3時間の道のりを下道で駆け抜け、岬から砕ける波を見下ろした。
春には、金麦の500ml缶を片手に、桜並木を歩き回った。あるいは、桜なんてなくても缶ビール片手に人気のない深夜の公園で研究の愚痴を言い合い、将来への不安を吐露しあった。
それらは手軽で、ついでにリーズナブルで、ぼくらの日常なのだった。
さて、社会人になってみると、幸いにも東京で就職したものたちが多かった。寂しがりやのぼくたちは、毎週末、あるいは週に数度集まり、酒盛りをした。
社会人になってからの酒盛りは、皆の勤め先からアクセスの良い居酒屋街で、お手頃な居酒屋。だけれど、別れるのが惜しく、2軒、3軒とハシゴをかけて行く。
「酒代がヤベェよなぁ」
皆、それぞれに名の通った企業に勤め、それなりに稼いでる奴らであったが、そんな声も聞こえるようになる。それもそうだ、店飲みをそれほどまでに重ねていれば。
それでも、ぼくは酒を飲むのをやめることができなかった。もはや友と時間を同じにする手立てが、それくらいしか無いように思われたからだ。
ある休日、ぼくはカメラをカバンに詰め込んで家を出た。酒飲み相手が捕まらなかったし、家にいると息が詰まってしまうように感じられたからだ。
黙々と都内を歩き、珍しい建物、変わった風景を見かけると、写真で切り抜いていった。都内はよく見てみると、なかなかに表情豊かなのである。
カメラを構えていると、ヴ、とiPhoneが震えた。ぼくが投稿した都内歩きの写真を見て、俺も今都内だから合流しようぜ、と友からの連絡。大学に残った友人で、学会発表の帰りなのだという。
合流すると、日は傾いていた。何をしようか、と考えた末、コンビニに行き、缶ビールを買ってみた。 ツマミと酒を持ち、ぶらぶらと人ごみを歩くと、社会に背いているようで、愉快になってきた。
「30になってまでやることじゃなくね?」
「だけど、これがやりたかったんだよ、結局のところ」
友人は、そうだな、と頷いて金麦を飲み干し、続いてハイボールのプルタブを上げた。 その日は、仕事の悩み、研究の悩み、人生の悩み、最近面白かった映画……など、他愛もない話をした。気づくと10km以上歩いており、終電を逃した友人を家に泊め、映画を観ながらくだらない話をした。
結局のところ、ぼくにとっては、これなのである。
年相応、身分相応なんてしゃらくさい。おしゃれなレストランだって、美味しい日本酒だって、豪勢な肉だって遊園地だって。 そのものの楽しさもあるけれど、それを口実に気の合う仲間と時を共にするってのがぼくにとっての本質、目的なのだ。
ガキっぽくて結構、金をかけての遊びじゃないと満足できなくなるんなら、大人っぽくなんてなりたくはない。
後日、飲み仲間にその話をしてみた。仲間たちは喜び、一人の部屋で飲み会が行われることとなった。 酒も料理も持ち寄りで。しかし、「あれを持ってく」「これを持ってく」と、皆のやる気のある姿をみると、果たして本当に安上がりになるのかは疑問符がつく。しかし、持ち寄る酒が有名銘柄のお高い純米大吟醸であろうと、安い純米酒であろうと、その楽しさが変わらないことを、ぼくは知っているのだ。