私がブログを書く理由。思考の言語化は癒しとなる。
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ぼくがブログを書く理由。それは、自分のためだ。
自分自身を、客観的にみる、ということはとても難しいことだと考える。人はよく嘘をつく生き物だし、知り尽くした自分をだますのなんていうのは、造作もない。
そのとき、本当に思っていたことや考えていたことは、自分のなかでゆっくりと変化し、都合よく作り変えられてゆく。あるいは、都合よく記憶から消されてゆく。 そして、自分が本当に考えていたこと、思っていたことはわからなくなってしまうのだ。
ただ、厄介だと考えるのが、その「騙し」が、自分にとってもほとんど無意識下に行われることだ。
自分自身の外部出力
先に述べたとおり、自分を客観視するというのは、とても難しい。けれど、それでも自分はどういう人間なのか?と考えねばならないときがある。周りから指摘してもらえた子供の頃はよい。気の置けない、遠慮しない友人が居ても良い。上司だっていい。しかし、残念ながら年を重ねるにつれて、指摘を貰える機会はなくなってゆく。
年の功で落ち着きを得られる、だなんていうのは大間違いだ。でなければ、コンビニでの老人たちの怒号は日常風景にならないし、駅員に攻撃的に絡む定年間近のオッサンなども珍風景になるはずだ。
だから、ぼくは先生や親などといった外部機構を用いなくても、なんとか自分を振り返る方法があるとよいと考えた。それが、ブログだった。
ブログの危険性
一方で、ぼくはブログを書くことを、一方間違えれば自傷行為にもなり得るだろうと考えている。なぜか。それは、プライベートの自分の考え、想いを公に晒すことになるからだ。それは、街中で裸体を晒すこと以上のことだとぼくは思う。
そして、気を払ってブログを書かないと、容易に個人を特定しうる。車の写真、最近買った物の写真、風景の写真。このブログも、きっとぼくを知る友人が読めば、一瞬で特定できるだろう。その程度には、このブログの匿名性は怪しいものだ。それは、他の人の日記ブログについても同様であると考える。
そして、思いのままに書いたブログは、時折厄介を運んでくる。それは、炎上だったり、訴状だったり。いま、ぼくが一応の匿名でブログを再始動した理由は、訴えられそうになったためだ。
それでもブログは癒やしとなる
それでも何故ブログを書くのだろうか?それは、ぼくにとって自分を知ることが、自分の精神の安寧に繫がるからだ。自分の思考を言語化することが、癒やしとなるからだ。
自分を知ると、安心する。得体の知れないもの、というのは恐怖を感じる。それが身近であればあるほど、その恐怖は増す一方だ。得体の知れない自分というものは、恐怖の極みなのだ。そんな自分を解き明かしてくれるブログ、というのは良いモノだと思う。
思いのままに文章を書くのは気持ちいい。僕をいやしてくれる。それは、裡に溜め込んだものを吐き出し、気づきを与えてくれるからだ。溜め込んだものを出力し、順序を整え、見なおしてみると、どうして自分が怒っていたのか、悲しんでいたのかを知ることができる。あるいは、そんな風に感じなくても良いことだったと気づくことがある。
そんなことであれば、ブログでやらなくても良いだろう、という向きもある。それはその通りだ。けれど、自分の悩みを他のひとに聞いてもらうのは、心地よい。でなければ、飲み屋で絡み酒なんていう光景は目にしないだろう。
だったら、SNSやメールでも良いだろうか?勿論ぼくも使う。けれど、そこには閉塞がある。毎度、同じ相手に発信し続け、必ず一定の「いいね」が貰える。必ず返信やコメントがある。それは優しい閉ざされた世界で、ゆっくりと沈みゆくような錯覚に陥る。
ぼくは、もっと新鮮な空気が吸いたいし、仲間うちでの優しい読みあいというのは少し苦手だ。知らない居酒屋に行って初対面の人と酒を飲み交わし、ひとしきり笑いあい、縁があったらまた会おうと別れる。そして、お互いそのお店が気に入り、通い詰めればやがてまた出会うことだってあるのだ。そういうものがぼくは好きなのだ。
求めすぎだ、と人は言う。その通りだ。けれど、その分ぼくは自分の考えを衆目に晒すというリスクを取っている。だから、少々欲張ってその分のリターンを望んだっていいだろう?そしてぼくは実際にまた出会う。お気に入りの酒屋で、バーで、そしてこのブログで。
それが、ぼくがブログを書く理由だ。
さいごに
本エントリは、はてなブログの「今週のお題」からでした。
今週のお題「私がブログを書く理由」
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