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【ネタバレあり】『この世界の片隅に』のリンと水原にみる物語のテーマ(考察と感想)

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封切り直後に『この世界の片隅に』を観に行ってきた(感想エントリ)。

実のところ、この作品が制作されていることを知ってから、原作はあえて触れずにきた。そうして、一回この作品を観たあと、原作を読み、もう一度劇場(立川の極音上映)に足を運んだ。

そうして知る、この作品の奥深さ。 この作品を観た人でも、是非原作を読んだ上でもう一度劇場で観て欲しい。

なぜか。ただでさえ原作は高密度で圧縮されているのに、この映画は尺に収めるために、更に圧縮を行っているからだ。 たとえば、原作と絵コンテ、作品では一等巡洋艦の呼び方が変わっている。 監督によると *1、 尺に収めるために、このたった一言の台詞ですら「同じ意味でより短い台詞」に切り詰めて作品を作ったそうだ。

さて、このエントリでは 原作のネタバレも含んだ 考察と感想を書こうと思う。

リンさんの存在

さて、映画と原作で一番大きい違いというのは、やはり遊郭のリンさんの存在だろう。 原作では、大きな存在感を伴って描かれているリンさんのエピソードは、大幅に削られている。

この点を踏まえて、周作、すずさん、リンさん、水原哲らの関係について、考えてみたい。

周作とすずさんと水原

すずさんと周作は、お互いに淡い気持ちを抱いていた。 それはきっと、結婚後も多少なりとも残っていたのだろう。

江波でのことを知らない周作のあずかり知らぬ気持ちだ。 しかし、水兵になった水原が現れたことで、周作のすずの水原に対する気持ちに気づいてしまう。

いつもニコニコと笑って、けれど自分の気持ちを表に出せない……それこそ、ハゲを作ってしまうほどに、 自らの裡に抱え込んでしまうすずさん。 そんなすずさんが、水原に対しては素の行動をとる。

特に印象的なのが、周作がすずさんを納屋に向かわせるシーンだ。 すずさんに、「積もる話があるだろう」と、 行火あんか を持たせて向かわせる。 そして、鍵を閉めて家に入れなくしてしまう。

「あんたでも強気のときがあるんじゃのう」

この台詞と、この行動が示すように、水原とすずさんの打ち解けた様子に対して、周作は嫉妬心を抱いた。 そんな嫉妬心が、「布団の敷いてある納屋に、好意のある者同士を二人きりにしてしまう」だなんていう、落ち着いた周作には似つかわしくない、子供じみた行動に移させたのだ。

このシーンの素晴らしい点は、 家族としてまだ打ち解け切れていないのはすずさんだけでなく、周作も同じである 描写となっている点だ。周作もまた、大人びて落ち着いた一面しかすずさんにしか見せていないのである。

そうしてその後、電車の中から始まる夫婦喧嘩。 お互いの気持ちを、上っ面だけでなく、ぶつけ合えるような関係になったことを示す。

そしてきっと、これと同時にすずさんの中での水原は、「過去の人」となったのではないだろうか。

周作とリンさん

さて、映画では省略されてしまっていたリンさんのエピソード。 原作では、 周作はリンに淡い想いを寄せていた ことが示される。

これは、すずと水原の関係と対を成す、周作の過去だ。 そして、こちらの方がより複雑な人間関係を呈する。

原作において、すずは迷子になったときに助けてくれたリンさんと交友を深める。 しかし、すずはリンさんと周作の過去の関係に気づいてしまう。

それは、文字の読み書きに不自由するリンさんが、周作のノートの切れ端に書いて貰ったメモを見つけたとき。 それは、りんどうがら の茶碗を見つけ、それをみた周作が「嫁に来てくれた人にやろう思うて昔買うとったものじゃ」という言葉を発したとき。

リンと交友を深める中で、すずは思い悩む。 周作から見初められ、呉に来たすず。 水原との関係も気持ちの整理を付けたが、しかし周作も家族から反対されてリンとの結婚を諦めたという過去。

「周作さん、うちはリンさんに何もかなわん気がするよ」

代用品 のことを考えすぎて疲れただけです」

当時の代用品は、品質が悪く、本物に大層劣る。 自分は、かないようもない魅力を備えたリンの「代用品」なのではないか……とすずは一人思い悩む。

そして、それは物語の終盤、そしてテーマへと繫がってゆく。

右腕と、すず

「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

ある日リンはすずに言った。 この言葉は、ずっとすずの胸の裡に在り続けた。

すずの右腕は、すずの本音であった。その右手が喪われたとき、すずには自分自身の居場所があやふやになってしまったのだろう。 片渕監督は、この作品は「すずさんが自分の気持ちを自分の口で言えるようなる物語」なのだと語った*2

「すずさんのお腹の中にあることは、右手が表現してた。自分は口に出せない。全部、普段のはリアクション。だから、私は右手がなくなったから、すずさんが自分の口の喋るようになった、と」

ずっと言えなかった、リンさんのことを周作に言ったのも、右手を失ってからだ。

広島に帰る、と泣きわめいたのも、右手を喪ってからだ。

冴えない左手、冴えない心。喪った右手は、鮮やかにすずさんの心を描き出してきたけれど、残るものたちは不器用なのだ。 そうしてすずさんは、不器用ながらも本音で周作や北條家の家族とぶつかり合い、「本当の家族」となってゆく。

リンさんの示したもの

さて、少し気になるのが、もう一人の主人公ともいえるリンさんの居場所についてである。 子供のころに売られて遊郭に流れ着き、そこで生活をする。好き合っただろう周作との仲も引き裂かれた。 「この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」そう言ったリンさんの居場所は、果たしてどこだったのだろうか。

それは、すずとの友情、そしてすずの記憶の中なのではないかとぼくは思う。

リンは、かつて咲き誇る桜のもとで、こう言った。

「人が死んだら記憶も消えてのうなる。秘密はなかったことになる。それはそれでゼイタクな事かも知れんよ。自分専用のお茶碗と同じくらいにね」

そして、崩れ去った遊郭の建物を前に、今はいないリンさんを思い起こしながら囁く。

「ごめんなさい、リンさんの事、秘密じゃなくしてもた……これはこれで贅沢な気がするよ」

すずは、リンのことを秘密ではなくした。 そうすることで、リンのことを「あったこと」としたのだろう。 きっとそれは、生半可な覚悟ではないのだ。亡くなった誰かの分も生きる。

「生きとろうが死んどろうが、もう会えん人が居ってものがあって。うちしか持っとらんそれの記憶がある。うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね」

そう言ったすずは、もう「誰かの言いなり」で生きているのではなく、自分の足でしっかりと立っているのだ。

水原が示したもの

水原が示したものは、「変わるものと変わらないもの」だと考える。 水原は、結婚しても変わらないすずをみて安心し、こう言った。

「ずうっとこの世界で普通で……まともで居ってくれ」

けれど、すずは好もうと好まないとに関わらず、変わっていた。もしかしたら、「まとも」ではなくなっていたのかもしれない。 強くしたたかになったすず。玉音放送をきいたのち、「うちはこんなん納得できん!」と叫び、外に出る。

そして、世界の欺瞞に気づいてしまう。暴力には屈しないと、自分たちが正義であると信じていた戦争。 それが、あるときを境に正義ではなくなってしまうという「変化」。

「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね *3

物事は移ろい、一定ではない。 とくに、呉や広島といったところでは、戦争では様変わりしてしまっている。

では、変わらないものとはなにか。それは、人々が生きるということ、そして営みは連続しているということ。 笑うこともあるし、泣くことだってあるし、悩むことだってある。 人々は食べて、飲んで、生きる活動をする。そういった本質は、現代でも何も変わらない。

そして、ショッキングなことに、それはぼくたちの生活と地続きにあった世界なのである。 だから、この作品に描かれたようなことは、同じ世界に住むぼくたちにもあり得た過去であり、未来でもあり得るのだ。

選んだ道、選ばなかった道

この作品は様々な可能性を内包している。 晴美を左手に繋いでいたらという道。水原を選んでいたらという道。周作が、リンさんを選んでいたらという道。 さまざま、もっと幸せだったのかも知れない道が思い浮かぶ。

けれど、それは「選ばなかった」あるいは「選べなかった道」だ。 それぞれ全く別の道で、替えの効くようなものではない。 だから、すずさんをリンさんの代替品としてみている訳ではないのだ。まったく、別の道を選択したのである。

そして、ふと立ち止まって考えてみると、この「すずさんが選ばれる道」というのは、なかなかに奇跡的なものなのだ。

水原と一緒になっていたら、すずはきっと広島で被爆していた。 もし、腕を失ったあと広島に帰っていたら、やはり広島で被爆していた。 もし、右腕を失っていなかったら、広島の被災者支援に行き、高濃度の放射線を浴びて放射能障害に苦しんでいたかもしれない *4

ほんのささいな選択の違いで生きる死ぬが左右されていた恐ろしさ。 想像を絶する世界である。 そんな世界の中でも、人々は居場所を探して、居場所を作って支え合って生きていた。

どんなに時代が移ろおうとも、人が生きることの本質は変わらない。

さいごに。今ぼくは自分が歩んでいる道がどこに繫がっているか分からない。けれど、いつかどこかに居場所をみつけて……あるいは誰かの居場所になれるといいなって、ぼくは思うんだ。

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*1:第125回アニメスタイルイベント:ここまで調べた『この世界の片隅に』 その調査・考証の全て!?より

*2:こちらも第125回アニメスタイルイベントより

*3:原作の台詞。映画では「海の向こうから来たお米……大豆……そんなんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね……」に変更されている。 監督インタビュー記事 でその背景が語られるが、個人的には原作ママの方が好みであった

*4:実際、原作中では呉から救援に行った人が、身体がだるくてうごけない……という描写がある