アニメ映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はひどい作品か?感想と考察
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これ、原作観てないとわかんねーんじゃねーの?
それが第一印象。原作の実写映画が好きな人は、「なにこれ」って怒る人いそうだし、アニメだけで入った人は「わからん!」ってキレるだろう、そう感じた。視聴後、「つまらない」と酷評されているのを見かけて、やっぱり、とぼくは頭を抱えた。
この作品は、エンタメなんぞではない。文学然とした作品だ。ワクワクする盛り上がりはない。「君の名は。」とはかけ離れた作品だ。それは、原作の映画(元々はドラマ)からしてそうである。
実写映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は、子供時代をまた拗らせそうになる傑作だ - 立て直せ、人生。
ただ、文学的作品としてみても、この作品は残念なのである。映像は綺麗、キャラクターは魅力的、音楽は美しい……なのに、どうしてもこの作品は他人には勧められない。
ぼくはこの作品を嫌いになりきれない。むしろ、BDを買おうと思ってるくらいだ。だからこそ、どうしてこうなったのか……「もし、こう作れていたら」という「if」を考えてしまう。
以下は、原作作品を踏まえた上で、なにがダメだったのか?ぼくの考えをあらわしてみる。
映画を観るつもりの人、攻撃的な批判が苦手な人は読まないこと。
あらすじ
夏休み、海辺の町の中学に通う子供たち。花火大会をまえにして、とある話題が男子たちの間で持ち上がる。
「打ち上げ花火を横から見ると、丸いのか?平べったいのか?」
そんな男子グループのなかにいる、典道は、大人びた女子「なずな」に想いを寄せていた。
そんななずなは両親の離婚に伴い、二学期を前にして夏休みの間に転校することが決まっていた。
なずなは、典道、そしてその親友祐介とがプールで競争をするのを見かけ、勝ったほうを花火大会に誘おうと心に決める。典道が勝つと思いながら。
そして、勝つのは典道ではなく、祐介であったのだ。
「かけおち、しよ?」
勝った祐をに花火大会に誘うものの、約束をすっぽかされたなずな。たまたま出会った典道に、そう声をかける。しかし、町を逃げ出す前に母親に連れ戻されてしまう。典道の目の前で。
「もしも、あの時俺が……」
もしも、あのとき勝っていたら。そう悔やみ、なずなが海で拾った「不思議な玉」を投げつけた。すると、プールでの競走の時に巻き戻っていたのだ。
「俺が、なずなを取り戻す」
1日を何度も繰り返す先、なずなと典道には何が待つか。
ちぐはぐな、不協和音がする作品
大変ちぐはぐな作品。
映像は綺麗、キャラクターは可愛い、音楽は良いと、材料は大変良いのに、どうして仕上がりにこんなに雑味があるのか。そんな印象である。
正直、ネットで「酷評すぎて逆に観たくなる」というほど酷いものではない。ぼくにとっては、減点方式で観ると赤点、加点方式でいくと合格点、そんなイメージの作品だった。
恐らく、酷評している人たちは、期待していたものと全く別のものが出てきたのであろう。それは、「君の名は。」のようなエンタメ青春ストーリーかと誤認させるCMを打っていたからだと思われる。
原作観たぼくですら「ああ、原作材料にして、エンタメに振り切った改変したのね」と思ってしまっていたほどだ。 しかし、そうではなかった。
エンタメ期待して行ったら、カタルシスのないべたっとした、盛り上がりの欠ける作品。 女の子救えてないし。何これ?ってなるのも頷ける。
モチーフがぶれぶれ
一番まずいと思った点がこれである。恐らく、これが原因で、様々な不況和音が目立つようになってしまっているのだ。
それは、「花火」である。
タイトルとの不一致。
原作では、典道が勝った「if」の話の中で、子ども達は打ち上げ花火を横からみる。典道は、一人で打ち上げ花火を下からみることになる。物語の最後、この打ち上げ花火のシーンは、ビジュアル的に非常に美しく、タイトルと相まって印象に強く残るのだ。
一方、本作では花火以上に繰り返し出てくるモチーフがある。「灯台」だ。なずなが拾った、一日を繰り返す「不思議な玉」は、灯台をモチーフにしたものであった。また、作中では灯台を中心として物語が進むし、「不思議な玉」によって作られた平行世界は、灯台のレンズのような紋様のドームに囲まれていた。
ちょっと待てよ、打ち上げ花火よりも灯台目立ってねぇか?
花火だけがモチーフとしてあった原作は非常にシンプルだったが、本作は「灯台」というのも出てきてしまい、花火の方が脇役になってしまっているかのよう。
なずなと典道だけの物語
何故花火よりも灯台が印象に残るか。それは、なずなと典道の話にフォーカスしすぎているからではないか。
原作では、男子達の「花火を灯台に登って観に行く」ロードムービー的な映像と、なずなと典道の駆け落ちシーンとが、同じくらいの時間を割かれて描かれる。それは、子ども達にとって、どちらも同じくらい大切な物事だからだ。そして、なずなと駆け落ちの真似事から帰ってきた典道も、灯台まで長い道のりを歩いた子ども達も、それぞれ同じ花火を観るのだ。横からと、下からとで観る場所は違うけれど。
一方で、本作ではなずなと典道の話にフォーカスが行ってしまっている。だから、なずなが海で拾った、「謎の玉(灯台)」が何度も出てくるし、そちらの印象の方が強くなってしまっている。そして、同じくらいの時間が割かれて描かれていた、「灯台まで歩く男子達」が、余りにぞんざいに扱われてしまっている。
青春物語から、恋愛物語りへ。そういう改変が行われ、結果タイトルやモチーフなどのバランスが悪くなり、ちぐはぐした印象を請ける。
ストーリー構造が複雑
言いたいことのわりに、無駄に複雑になってしまっている。そう感じた。
人生のターニングポイントで違う行動をとっていたらどうなるか、という2つのストーリーを見せる、という構成になっている。祐介に負けた場合、勝った場合。
本作でも、「祐介に負けた場合」のストーリーはほぼ原作をなぞっている。しかし、典道が勝ったあとの展開は、もう一つのストーリーを見せるだけなのである。
ループ要らないのでは
原作には、ループなんて無い。典道が勝った場合、途中まで駆け落ちの真似事をするが、また町に引き返して行く。それだけのストーリーだ。
「え、切符買って行くんじゃ無いの?」
「なんのこと?」
原作では、バスに乗った後、電車に乗って出て行ってしまう前に、なずなは「町に帰ろう」と言うのである。その理由は明確に描かれず、視聴者にその解釈は委ねられる。
非常に静かな作品で、情報量は正直言って少ない。子ども達の振る舞いで、表情で、思っていることを想像するしかないのだ。
ぼくは原作をこう読み取っている。自分たちの力ではどうしようもない出来事がある。けれど、その中で折り合いを付けて、精一杯生きている。
だから、これはエンタメではない。エンタメ作品では、自分たちの力で困難を乗り越えて行く、そのカタルシスが必要だからだ。本作のように、どうしようもない境遇を受け入れて行く、そういうのは文学作品に近い。
一方で、本作品は、何度も何度も繰り返す。なずなを取り戻そうとする。それはまるで、熱血のエンタメ作品のようだ。シュタインズゲートのような作品でも、これは効果的に用いられた。
しかし、典道もなずなも、結局望むものは得られない。現状を受け入れるのだ。そんなエンディングは、視聴者が予想していたものを裏切ってしまう。
子ども達の年齢への違和感
作中、なずなが高校生や大学生くらいに見えたりする。っていうか、「物語」シリーズのひたぎさんのようにも見える。典道は、制服を着ていると高校生くらいに見えるが、私服だと小学生のようにみえる。
正直、冒頭は「みんな高校生???」って思ってしまっていたくらいだが、追い打ちを掛けるのがシャフト演出である。あの独特のポーズ、どうしても中学生くらいの年齢の子供がやるようには見えない。大人びて見えてしまう。
原作では小学生
だから、 悪いお姉さんが、中学生くらいの子ども達をたぶらかしている ようにみえてしまうのだ。
実は、原作では小学生の年齢設定である。だからこそ、花火の形という他愛も無いお話で盛り上がることができたし、その答えを知るために、灯台まで歩いて行く、なんていう馬鹿をやりだす。好きな女子にデートに誘われても、照れ隠しですっぽかしたりしてしまう。
また、女子と男子の成長具合が一番異なるのがこれくらいの年齢であろう。女子は大人びてるし、男子は子供っぽい。
だからこそ、なずなの行動も「ちょっと大人びた女子が、思い出作りのために駆け落ちごっこをする」くらいで済む。だから、なずなも「無垢な少女」として写るのだ。
中学生設定となずなのエロさ
しかし、本作では年齢設定を上げてしまったこと、またキャラクターデザインにより、「小悪魔的」なお姉さんに写ってしまう。
なずな演じる、広瀬すずの演技は素晴らしい。素晴らしすぎて、どこかえっちくて、やっぱり少年達をたぶらかす「お姉さん」にみえてしまう。シャフトのフェチズム的演出が、またなずなの妖艶さを強く印象づけさせてしまう。
それはそれで面白く、そちら側で振り切ってしまえばよいのに、やはり年相応の行動として描こうとしている部分もあり、足並みが揃っていない印象を受け、歪に感じてしまう。
作品の解釈
「ここまで文句言っていて、なんでお前気に入っているんだよ」という声が聞こえてきそうなので、アニメ版について、ぼくの解釈を最後に示したいと思う。
原作以上に「可能性」についてを前面に押し出している本作の、そのテーマについて、ぼくは気に入っているのである。
なずなと典道たちの考えについて
まず、この作品にループ、「不思議な玉」に関してあまり考察しない。なぜならば、「ifの世界を描く」という企画を、判りやすく示すためのものであるからだ。そのための小道具が必要で、原作の中から扱いやすそうなものを持ってきたのだろう。
まず考えるべきは、なずなと典道の考えだ。なずなは、本気で駆け落ちをしようとは思っていなかった。原作では明言されなかったが、本作では明確にそう言葉にする。最後に一緒に思い出をつくりたかった。それだけなのだ。
なぜか。彼らにとっては、あの町が世界の全てだからだ。親の都合などというものは、自分たちの力では抗いきれない、どうしようもない物事だ。 もし駆け落ちしたとしても、その先の生活について、きっと彼らに具体的な考えは無い。よしんば本当に駆け落ちしたとしても、出来ることはないのである。
だからこそ、そのときそのときの気持ちが大切なのだ。たとえその後がどうなろうと、彼女をその瞬間親から守ってあげたかった。彼女が駆け落ちしたいと言うのであれば、それに乗ってあげることをしたかった。
だから、ループで彼女を救えなかった、と断じるのは間違っていると思う。典道が意識していようとしていまいと、ループを繰り返し、彼女を救おうとしたこと、それが彼女に取っての救いになっているのだ。
世界の崩壊と彼らの成長
この世界に居よう、なずなと居たい、と言った典道。けれど、世界は壊れてしまう。そんな世界を眺めながら、なずなは口にする。
「つぎ、いつ会えるかな」
海に浮かびながら彼女が発した言葉。それは、典道たちのこの先を示すのだろう。中学生から高校生に上がり、そして大学生になれば親の元から旅立つ。典道たちにとっての世界のすべて「この町」は、やがて壊れ、典道たちは外の世界を知ることになるのだろう。
そのときになれば、なずなも典道も、望めばきっとまた会える。
最後のシーン
最後、転校したなずなだけで無く、典道も学校に姿が見えない。サボりなのか、何なのかは判らない。 しかし、何かしらの意思を持って、その場に居ないのだろう。
中学生にとって、町は大きな殻である。その中で守られて暮らすしかない。しかし、典道は、その学校という「殻」を破るという一歩を踏み出してみた。
何をしているのかは判らない。けれど、描かないからこそこの作品の締めにふさわしい。あの「不思議な玉」が見せたように、可能性は常にどれだけだってあるのだから。人生は選択なのである。
典道は成長し、まずは「学校の授業をサボってみる」という「選択」をしてみたのだ。
可能性は、選ばれることにより滅してゆく。けれど、主体的に行動をして、その選択肢を選び取っていれば、きっと後悔をすることも少ないだろう。
だから、この先なずなと典道が、後悔の少ない選択をできるように、ぼくはエンディングを観ながら祈ったのである。
最後に
批判はしたし、色々と噛み合っていない、ちょっと残念さがある作品である。
けれど、ぼくは好きなのだ。すかっとしたエンターテイメントでは無いけれど、考えさせられる、印象に残る作品だとぼくは感じている。
ままならない、中学生たちのちょっと不思議な夏の思い出の作品として、観てくれると良いと思う。
映像の美しさは折り紙付きで、下のPVを観て貰えればその完成度の高さは判って貰えると思う。